心と暮らし 育休パパ日記

「役職じゃなく“自分”として、誰かに必要とされたいだけだったのかもしれない。育休中にふと湧いた問いと、過去の僕の話。」

はじめに:自由なはずなのに、なぜかモヤモヤしている

育休に入ってから、なんだか不思議な感覚がある。
「自由になった」って思ってるはずなのに、どこかモヤモヤしている。

朝は子どもの笑顔に癒されて、
昼は家事して、育児して、ちょっとブログ書いて…。
一見、穏やかで、幸せな日々のはずなのに。

でもふと、手が止まる瞬間がある。

「……自分って、何者なんだろう?」

会社に行っていた頃は、名刺もあったし、
誰かに呼ばれるときは“役職付きの名前”だった。
でも今は、“パパ”か“〇〇さんの旦那さん”でしかない。

肩書きがなくなって、自由になったはずなのに、
逆に「自分の輪郭」が曖昧になった気がしてる。


キャリアの途中で、立ち止まった僕の過去

昔、僕はある大きな会社に入った。
同期は何十人もいて、みんな同じスタートラインに立っていた。

でも、数年経つうちに、その“ライン”はだんだんバラバラになっていった。
休んだ人、辞めた人、昇進した人、転職した人。

僕はその中で、途中で立ち止まることを選んだ。
いや、選ばざるを得なかった。


体調を崩して、会社を離れた。
復帰してからも、フルタイムでは働けなかった。
その結果、望んでいたような道は、いつのまにか目の前から消えていた。

今思えば、当時は「負けた」って思ってた。
でもそれって、“勝ち負け”で考えてしまうくらい、
自分の価値=キャリアの道筋だと信じていたんだと思う。


息子が教えてくれた、“顔を上げること”

ある日、保育園から帰ってきた息子がこう言った。

「先生に、“人の目を見て話しなさい”って言われたよ」

その瞬間、僕はハッとした。
息子は、僕によく似ている。
そして、僕自身が“目を見て話すこと”ができなくなっていたことを、
改めて突きつけられたような気がした。


病気になって、仕事を離れて、
自信をなくしてから、僕は人と目を合わせるのが怖くなっていた。
見られることが怖いというより、

「どう見られているか」が怖かった。


でも、息子に向き合う中で、
ちゃんと顔を見て、目を見て話そうと思えた。
それができるようになってくると、
スーパーのレジの店員さんとも、少しずつ、目を合わせられるようになった。

これは、息子のおかげだ。
彼に目を向けているうちに、

僕は“自分を見失った場所”から、一歩抜け出していた。


まとめ:自分を取り戻すって、“静かな革命”かもしれない

名刺も、役職も、日報も、
上司とのやりとりも、プレッシャーも、全部なくなって、
その代わりに手に入れたのは、赤ちゃんの泣き声と、
5歳の息子の笑い声、そして静かな時間。


“自由”のようで、“空白”でもあるこの時間の中で、
僕は何度も「自分って何者なんだろう」って考えていた。

でも、
息子の目を見て話すようになって、
自分の声をブログに書くようになって、
誰に頼まれたわけでもなく、
「僕自身のために言葉を紡いでいる」今、
ふと、こんなことを思った。

「今の自分でも、十分に“自分”として、生きてるな」って。


肩書きがなくても、
誰かと比べなくても、
“生きてる自分”をちゃんと感じられる瞬間って、
こんなふうに、静かに訪れるのかもしれない。


これはきっと、僕にとっての小さな革命だ。
だからこそ、これからも言葉を残していこうと思う。
歩いてきた道を、自分の足で、ちゃんとたどるために。


育休中の“モヤモヤ”と向き合った日記:Vol.1、終わり。
読んでくれて、ありがとう。

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