はじめに:飛ばす、という日常の中で
「今日も飛ばしに行こっか。」
保育園から帰ると、息子はほぼ毎日のようにそう言う。
“飛ばす”って、我が家ではあの発泡スチロールの飛行機のこと。
ダイソーで330円、ちょっと頼りない見た目だけど、
団地の隣にある広いグラウンドでは、**それはもう立派な“翼”**になる。
風に乗ってくるくる回ったり、時には思わぬ方向へスーッと滑空したり、
その姿を目で追っていると、なんかこう…胸がすっとするんだよね。
育休に入って、仕事から離れて、
“しなきゃいけない”ことより、“今、ここにある”ことが増えた。
そんな中で、この「飛ばす」という時間が、
気づけば僕にとってのリセットボタンみたいな存在になってた。
330円の飛行機と団地のグラウンド
その飛行機は、ダイソーで買った。
発泡スチロール製で、330円。
青い機体に赤いラインが入っていて、ちょっとANAっぽいから、
僕たちはいつの間にかそれを「ANA」と呼ぶようになった。
翼は差し込み式で、尾翼もスッと入れるだけ。
説明書はついてたけど、息子は見ずに組み立てて、
「もうこれで飛ばせるよ!」って誇らしげに言ってた。
団地のすぐ横にあるグラウンド。
フェンス越しに風が抜けていく、ちょっとだけ古びた広場。
ここが、ANAの滑走路であり、僕と息子の空港になった。
最初のうちはうまく飛ばなかったけど、
息子は全然くじけない。毎日、毎日、飛ばし続けた。
ちょっとずつ投げる角度を変えて、力加減を調整して、
気がつけば、風に乗って高く、高く、くるくると回るANAが空を舞っていた。
その姿を見ると、心がふっと軽くなる。
何も考えなくていい時間。
何も決めなくていい空の広さ。
この飛行機は、僕にとって“自由”の象徴だったのかもしれない。
けやきのてっぺん事件
ある日、風がちょっと強かった。
「今日はよく飛ぶかもね!」って息子はウキウキしながらANAを握って、
グラウンドの真ん中まで走っていった。
助走をつけて、手を振り抜いて──
その飛行機は、すぅっと浮かび、ぐんぐん上昇して、
気づいたら、10メートル以上あるけやきの一番上に引っかかっていた。
ふたりで「え?」「あれ?」って顔を見合わせて、
その直後、息子は走り出した。
「とりにいく!!」
けやきの木に手をかけようとする息子を慌てて止めたら、
その場で号泣。
家に帰ってからも泣き止まなくて、
「また買おうよ…」って妻が言ったけど、
僕はなぜか「それはちょっと違う」と思った。
簡単に“代わりがきく”ものにしたくなかった。
翌日、ふと気になってグラウンドを見に行ったら、
奇跡のようにANAが地面に落ちていた。
しかも、近くには掃除のおばちゃんがいて、
まさに今、処分されそうなタイミング。
「すみません、それうちの飛行機なんです!!」
ちょっと恥ずかしいくらいの勢いで声をかけて、
僕はANAを救出した。
その日の夕方、保育園から帰ってきた息子がANAを見た瞬間の、
あの笑顔は一生忘れない。
「また、昨日みたいに飛ばそう」
その日から、ANAはちょっとだけ特別な存在になった。
息子は「真ん中から飛ばした方がいいよね」って言って、
それからしばらくは、木の近くには近づかなくなった。
でもある日、ふとした瞬間にこう言った。
「また、昨日みたいに飛ばしに行こっか。」
“昨日みたいに”っていうのが、
あの日のことだけを言ってるわけじゃないって、なんとなくわかった。
何でもない、でも確かに心に残るあの時間。
風を読みながら、笑いながら、走って、飛ばす。
ただ、それだけの日。
でも、今の僕にとってそれは、
この育休の時間で一番大事にしたい瞬間なんだと思った。
まとめ:育児と向き合うって、こういうことかもしれない
育児って、何かを教えることばかりじゃない。
子どもと一緒に感じたり、失敗したり、泣いたり、笑ったりして、
“同じ時間を過ごすこと”が育児なんだって、最近ようやく思えるようになった。
仕事から離れて、時間と心に余白ができたからこそ、
この330円の飛行機と、団地のグラウンドが、僕の中でとても大きな意味を持っている。
また明日も、風が吹いてたら飛ばしに行こう。
“昨日みたいに”。